Pomme Grenade

Mon dessin numéro 1. Il était comme ça:

お菓子の包装の話

私が好きなお菓子、

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そう、ロータスである。

 

口の水分が全部持っていかれるくらいのパサツキ具合。ボロボロ崩れていく姿になす術なく独特な海外の甘みの奴隷になってただ口に頬張りたくなるアレである。

 

サイズ感が絶妙で、1枚だと物足りなさを感じ、2枚目を頬張るとじゃあ3枚食っても変わらないか!という私の中のポジティブデブが悪魔の囁きをする。

 

このロータスをいつものように頬張っている時に気付いたことがある。

 

それは、

【海外のお菓子の包装は「包むための」包装だが、日本のお菓子は「開けるための」包装ではないか】、という仮説である。

 

全部が全部同じというわけではないが、主語がデカすぎる仮説でもないと思う。実例を見ていこう。

 

写真がないのが悔やまれるが、ロータスはその代表格ではないか。

 

袋いっぱいいっぱいに包まれたビスケット。中身がたくさん入っているのは嬉しいが、これを開けようとする時に必ず中身部分が引っかかってしまい、中途半端なところで袋が半開きになる。

 

まさにロータスあるあるである。

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両端部分は、手でちぎりやすいように波波で切られてはいるものの切り込みが浅く力技でこじ開けなければならない個体も存在する。

 

よって、ロータスは長い歴史と有名なデザインと美味しさを権威として謙虚さを無くしてしまった、いわば天下りクッキーなのである。

 

ではここから他の海外お菓子を見ていこう。

 

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グミと聴いて、日本人が思い出すのはさしあたり果汁グミとピュレグミとハリボーではないだろうか?

 

ハリボーのゴールドベアは、日本にはないフルーツ味の表現が独特でなかなか美味しい。

 

パッケージは、己がクマである事を物語ってはいるもののグミ本体をよく見てみるとかまぼこに突起がいくつかついた謎の生き物の様相を呈しているのがわかる。横に倒せば山脈だ。そう、これは他でもない海外味山脈グミなのである。

 

ハリボーの袋といえば、そもそもギザギザがない、、気がする。袋の上部真ん中に大抵陳列のための穴が空いているので、その弱みに漬け込んで両手で袋の表裏部分に力をかけ勢いよく引っ張る、というのが開け方の常套手段ではないだろうか。

 

あったとしても、さすが海外製品。袋が薄く、やはり十分に開き切る前に切れ目が事切れてしまう。

 

このように、大抵の海外お菓子は、商品自体を魅力的に見せるため、そして商品を外部からの刺激や汚れから守るための「包み」としての機能を重視した包装となっている。

 

それでは、ここからは日本の包装を見ていこう。

 

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これは、私が好きなうまい棒のシュガーラスク味である。

 

うまい棒といえば日本人が必ず笛を吹くように、穴から息を吹きこんで遊んだ経験があるお菓子No1ではないだろうか。

 

私がうまい棒を推したいのは、そのギザギザである。

 

触ると、エラいギザギザしている。指に痛みを感じるほど、なかなかどうして鋭利に切り込みが入れられているではないか。

 

そして、実際に袋を開けてみると、その形状から手を汚さずに中身を食べることができるのである。

 

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こちらは数年前、「ジャガアリゴ」が流行ったじゃがりこである。

 

カップ型で自立し、蓋を開けると取って食べやすい。シェアをするときも触れずに渡せるというのがとても嬉しい。

 

少なくとも海外にこうしたパッケージのお菓子は存在しなかった気がする。あったとしてもプリングルスだけだ。

 

じゃがりこは、開けた後のその先まで想像されているお菓子である。

 

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そして最後にこれ、カプリコだ。

 

タブがいくつかついており、自分が食べている層にあわせてめくっていける。

 

最初に開くときに、カプリコの顔がついているかな?と想像させるワクワク感も含めて、とても優秀なパッケージングだと思う。

 

最後まで手を汚さずに食べられて、かつワクワクさも想起させる。

 

以上、海外のお菓子の包装と、日本のお菓子の包装を比較した。

 

これを読みながら、子供の頃、チュッパチャップスが開けられなくてイライラしたあのほろ苦酸っぱさを思い出したのではないだろうか。

 

日本のパッケージからは、

商品を説明する、

外敵から身を守るための外套になる、

 

という機能のみならず、

 

食べる前のワクワク感を惹起する、

食べる時に食べやすいようにする、

 

という、購入してからの生活者のストーリーを想像していることがわかった。

 

だから私は日本のお菓子が大好きなのである。

 

アルフォート、バンザイ!

勿忘草

勿忘草なんて粋な名前、いったい誰がつけたんだろう。

 

花言葉も「私を忘れないで」「真実の愛」って、なんて純粋で無垢なんだ。

 

花に勿忘草って付けちゃうとかすごくコピーライティング的で面白い。

 

由来を探ってみたら、どうやら和名の「勿忘草」が付けられたのは1905年の事だったらしい。植物学者によってつけられた。

 

たった100年ほど前かと思うと、日本人の言葉の変化をすごく感じる。

 

経緯としては、英語名の" forget me not "をそのまま訳したものだそうだ。

 

それも、ヨーロッパである男が好きな女性のために川の対岸にこの青い花を摘みに行ったが、流れに足を取られて流されそうになってしまい、咄嗟に岸にこの花を投げてこのセリフを吐いたのだそうだ。

 

いやそんなことあるわけないやろ!

 

花を見つけた想像力豊かな人があらかたストーリーを創り出したに違いない。しかしなんとも強い情緒を感じさせる花である。

そのまま忘れないで草ではなく禁止の漢字「勿」を伴って勿忘草なのもなんとも語感が良い。

 

 

ポリコレっていったいなんなんだ

「女らしさ」「男らしさ」は辞めろ。

 

黒人にスーパーヒーロー役をやらせろ。

 

女性を性的に搾取するな。

 

こういうのが今1番声の大きい主張な気がする。特にTwitterだと投稿1つとっても、「ポリコレ的にどうなのか」という議論が巻き起こる事も少なくない。所謂、「言葉狩り」である。

 

私はずっと、ポリコレを信仰していた。女性の権利はもっと主張されるべきだと思っていたし、もっと多様性に寛容な社会であるべきだと真剣に強く信じていた。だからこそ、誰かの言葉を捉えては「それってすごく差別的ではないのか?」とか「前時代的な発言だ」とか、気にしすぎるくらい気にしていて、意識しすぎるあまりうまく呼吸ができなくなっていた。

 

自分自身、何かを喋るにしても「主語が大きいけど」を頭につけたり、「ちょっと差別的に聞こえるかもしれないけど」みたいに、発言を上手くぼかしたりするために遠回りしたりしている。

 

多様性に寛容な社会を目指したいはずなのに、気付けば自分の発言すら自由に言えないほどがんじがらめになっている。『ハウスジャックビルト』という映画を観た時からそんな矛盾に気がつくようになった。

 

気づけば、ポリコレが正義だと信じて、それを人にも押し付け自分の中で世の中はこうあるべきだという主張をしている。それってすごく全体主義的で恐ろしいことなのかもしれない。

 

ポリコレが権威を獲得しているのは明白である。SDGsでもジェンダーイクオリティが主張されていて、持続可能な社会の実現のためにそれが必要な価値観であるとされている。

 

しかし持続可能な社会を目指すのに、「子供を作りたくない女性も平等にリスペクトするべき」という主張がされてしまえば、それは「持続可能な社会」と真っ向から相反する事になってしまうのではないか。

 

気付けは自分の意見すらまともに言えない。言論がポリコレによって封殺されている。


じゃあ社会ってどうあるべきなんだろう、と考えてみる。明らかに、ポリコレが権威を振るってそれがさも絶対正義かのように他人の発言を批判したりすることが正しいとは思えなくなってきた。じゃあ、差別的な発言をしていいのか?と言われても、それは違うと思うし、私も女性蔑視の発言を見るととても悲しくなる。

 

もはやもう、思想によって住む場所を分けた方がいい、くらいのアイデアしか思い浮かばない。自己矛盾を抱えたまま、地雷を踏まないように生きていくのはすごく息苦しい事である。

 

もはや、万人に好かれるなんて叶わないのかもしれない。芸人のぺこぱが人気を博しているが、全てを肯定する事って結局何も決められないことだし生産性もなくて前に進めないような気もしてきた。ぺこぱが居てもいい、でも芸人さんが全員ぺこぱをやり出したらきっとつまらない社会になってしまう。ぺこぱはぺこぱだけでいいのかもしれない。

 

なによりも、何かにつけてポリコレで誰かを攻撃することをする事に関して、自分の行為が何を意味しているのか一度立ち止まって考えた方が良いかもしれない。特定の思想は持たなくても、その時々で大切だと思う価値観で発言すればいいのかもしれない。それってすごく一貫性のないことかもしれないけど、本当の正しさなんてどこにも無いからそもそも自分の拠り所になる価値観を見つけ出して確定する行為こそ愚かな事なのかもしれない。

 

言葉尻が曖昧になってしまう。しかし私にはまだ言い切る勇気はない。

 

 

「私だけ、美人だったら、いいのに。」

1989年の西武百貨店のキャッチコピーである。

 

言い得て妙である。

なぜ私がそう思うのか、ここに言語化してみよう。

 

『私だけ、美人だったら、いいのに。』

 

文面だけ見ると、世の中にはたくさんの美しい人たちがいて、ここでいう私(ターゲット)は自分のことを美しいとも思っている(もしくは自分を美しくないと思っている)が、同時に美しい周りの女性を疎ましく思っている、というようなニュアンスが感じ取れる。

 

試しに、『私だけ、美人だったら』の状況がどのようなものか想像しよう。

他の美人を気にする必要がなくなって、圧倒的に優位に立てる。(簡単に言えば、モテたり、ちやほやされて生きやすくなったり。)

=ここから、美というものが1989年においてある種世の中を生きやすくするための「武器」であると言える。

 

『いいのに。』の言葉が示すのは、上記のような状況が現実ではなく、その状況を「理想」とする、あくまで「願望」にとどまる思いというのがわかる。

 

つまり、この広告が対象とするのは「美に対して貪欲な全ての女性」で、そのゴールのない「美意識」を煽り立てているのではないだろうか。

 

永遠に埋まらない「美」への執着を文字として起こすことで、もはや怒りのような感情を沸き起こらせて、どうしようもない無力感に、さらなる「美」への志向性を高まらせるというような効果がありそうだ。

 

簡単に言い換えるとすれば「一番美しくなりたい!だから化粧品買うしかない!」というような感じだろうか。白雪姫の女王のようなキャラクターがターゲットとして想像できる。

 

・・・

 

1989年から30年ほど経過した今でも、このキャッチコピーは私に刺さった。

 

令和においても、ルッキズムの嵐は止まることを知らない。「かわいいは正義」だし「かわいいは作れる」のである。

 

一方で、有名大学におけるミスコンの廃止だったりアメリカにおいてもヴィクトリアズシークレットのファッションショーがなくなったりと、ルッキズムに対抗した風潮も生まれつつある。そのような「均一した美意識」が成立しなくなってきた世の中において、化粧品というのはどんな機能を持っていくのだろうか。

 

ここからは私の憶測にしか過ぎないが、「個性を表現するもの」としてさらに化粧品も活躍していくのではないかと思う。Tiktok、インスタグラム、そしてClubhouseなどの最盛を見ていると、現代は、「個人が個性を発揮して発信すること」に価値がある時代であると言える。他の人とは違う「+@」を表現するために、顔や身体に「+@」の価値を付与する手段としてこれからも化粧品が用いられていくのではないかと思う。

 

今までは、「橋本環奈」が大正義だったかもしれない。しかし10年後、20年後を見てみると、もしかしたら特定の1人をまつりあげて美を定義するのは難しくなっていくのかもしれない。

 

 

"socially acceptable insanity"

"Falling in love is kind of like a form of socially acceptable insanity.”

Spike Jonze, (2013/her)

 

これは私が今まで無数の映画を観てきた中で最も心の琴線に触れたセリフである。

 

作品はAIとのロマンスを描いた『HER』というもの。映画自体は正直気持ち悪かった。

傷心した主人公の心の隙間にAIが入り込んでいて、それを受け入れてしまう主人公の心の弱さと人間の感情を完全に凌駕しているようなAIの知能の様子が妙にリアルで恐ろしく、倫理観がぶっ飛んでいて気持ち悪かった。

 

現実と非現実の臓器移植のような感じ。

 

恋は人を盲目にさせると言うが、まさに主人公の理性がAIという理想のパートナーを目の当たり()にしてぶっ飛んでいた。

 

たしかになと、このセリフを聞いた時は思った。自分のプライベートという最も大切な時間を犠牲にしてまで別の人に何かを与えたいと思うような積極的な気持ち。利害とか損得勘定を差し置いて自分を捧げる、というような行動。

 

人間ともあろう生き物が、合理的に社会形成を行なっている生命体が愛という名の欲望を前に骨抜きにされている様子はまさに「社会的に受け入れられている狂気」と言えよう。

 

合理的な価値判断を狂わせ、それさえも正当化しうる社会における「愛」の感情はいつの時代も社会の真髄にあると思った。

 

 

Dismemberという単語

犯罪モノの洋ドラマ見てるとねやっぱり耳にキャッチーな単語をよく聞くんですよね。

 

homicideとかね。人間Homi+殺すCideで成り立ってんだろなって考えたりとかしながら洋モノを見るのが好きです。

 

日本語も楽しい言葉が多いけど。「たゆたう」とか。

たゆたうって英語で表すと私はFloatとかかなって思ってたけど、DeepLに聞いたらFlutterだって。たゆたうっていう一語だけで、力量を持たない何かが外部からの刺激でふわふわと静かに揺れている感じが想像出来るって感じが素敵。あとたゆたうっていう音も唇がくっつかない感じがたゆたうの無力さを感じます。素敵。

 

脱線したけど、英語にもそういう「お前一語でそんな意味あるんか〜〜〜〜い」みたいな単語も多くて、そういった単語に思いを馳せるのがとても好きです。

 

cideってラテン語のcadoreから来てるらしいけど殺すって意味で、なんでもかんでも語尾にこいつをつければ(suffixって言うんだったかな)〜を殺すになるって言う便利な言葉。英語界のくり〜むしちゅ〜みたいな感じするよね。

 

deicideで「神を殺す」だよ???一つの単語に持たせる意味にしては重すぎて笑う。ニーチェかよ。死んだと殺すじゃニュアンスが全然違うけど。

 

本題に戻ると、本日の主役はDismemberなんですけど、dis+memberかあと聞くと意味はさしあたり(グループ、組織からの)脱退、引退とかかなって思うじゃないですか。

disは打ち消しでmemberは人とか仲間とかかなって。

 

でもなんか調べたら意味が四肢を体から切り離すって笑

 

嘘じゃんwwwww

dismemberお前そんなイベントのためだけに生まれてきたんかwwwww

 

ネットで調べてもメタルバンドしかヒットしないんですよ。

 

語源で検索したらどうやら古いフランス語から来ているらしい。中世の残忍な処刑方法とかから来ていたりするのかな。

 

意味が重いわりにはなんとなく納得がいって覚えやすいのでdismember私的にはすきです。積極的に使っていこうと思います。