Pomme Grenade

Mon dessin numéro 1. Il était comme ça:

「薔薇色のランドセル」

私は、誰かと同じが嫌な子供だった。

 

原体験にあるのは姉と妹の存在。新しくない、二番煎じのおさがりが私の周りに溢れ、自分の意思を伝えて自分の欲しいものが手に入る機会はほぼないに等しかった。

 

何かを選ぶ時も、姉が選んだ後に「じゃああなたはどうする?」と、「本当は姉が選んだあれを選びたかったのに」という気持ちを食い殺して残り物に甘んじるしかなかった。

 

自分の存在がいつまでも2番手で、自分の存在価値について、子供ながらに何度も考えさせられたものだ。

 

さらにタチが悪いのは妹の存在で、やっと少し大きくなって「ワガママ」という形で自分の個性を主張していた矢先に、妹に私の個性をコピーされるという始末。

 

アイデンティティの城壁をブルドーザーでぐりぐりと抉られた、そんな幼少期だった。

 

そんなことは置いておいて。

 

だからこそ、私は人と同じことをすることや同じものを持つことに違和感を感じてしまう人間なのである。

 

 

小学生の頃、男子は黒いランドセル、女子は赤いランドセルの時代に私は育った。

 

オレンジや紫の、赤をちょっと押し広げたような色のランドセルが低学年に見え隠れしてきていた時代ではあったが、出る杭はあえなく叩き潰されるような空気感は未だあったと思う。

 

そんなとき、私は常日頃、「なんで私のランドセルは赤じゃないといけないの?」と親に尋ねていた。

 

意味がわからない。赤より黒の方が絶対にかっこいいのに、なんて。ガキにしてはなかなか新進気鋭な考え方をしていた。

 

ある時、母親に全力で泣きついたことがあった。水色のランドセルがいい、買って欲しい!というような内容だったと思う。

 

母親は困っていた。そりゃそうだ。母親こそ「赤が女、黒が男」が当たり前の時代に育ってきたのだから。

 

そこで、母が私にかけた言葉で忘れられない言葉がある。

 

それは、「いいじゃない、あなたのランドセルは『薔薇色のランドセル』なのだから」である。

 

私は、衝撃を受けた。薔薇色、なんて素敵な響きなんだろう。

クレヨンのように、赤、黄色、オレンジ、緑という分節で見ていた世の中に「薔薇色」という新しい色が加わった事で、世の中がより一層、カラフルに見えるような気がした。

 

私のランドセルは、「赤」ではなく「薔薇色」なんだ。そう思うだけで、友達のランドセルとは全く違う、唯一無二で特別なランドセルに見えてくる。

 

ひねくれているけど単純な私は、私だけの「薔薇色のランドセル」を卒業するその瞬間まで一度も壊すことなく大切にした。