Pomme Grenade

Mon dessin numéro 1. Il était comme ça:

葉桜

悪天候と風に煽られ、東京の桜は見上げるよりも見下げる量の方が多くなった。

 

純粋無垢な桃色混じりの白が青い空とのコントラストを魅せていた季節から一変、茶色と緑が混在するくすんだ桜の季節である。

 

美しく咲き続けたいという桜の花弁たちの執着心と、若芽のありありとした生命力が拮抗してるこの状態を葉桜と呼ぶと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

 

桜の花が散り若葉が出始める〜新緑で覆われる季節を指すらしい。広義ではあっているのかもしれないが、厳密にいうとまだ「散りかけの桜」あたりが正しいのだろう。

 

私は、満開の桜よりも、葉桜(広義)が好きだ。

満開だった季節を惜しむのは勿体無い。葉桜こそ、前向きで新鮮で、止まった時間を前に進めてくれる、そんな力に満ち溢れている。

 

桜は、その可憐さを愛でるために、さも蝉が1週間ほどの地上での生活が本番であると言わんばかりに、生きていると思われがちである。

 

地上に最初に根を張り、幾多の季節を乗り越え、葉が散る時も、花弁が咲き乱れる時も、枝が折れる時も、全てが桜の生命であり、そこに根を張り逞しく立ち続ける限り桜は桜といういきものとして評価されるべきなのである。

 

止まった時間を、前に進めよう。

桜の花びらの美しさばかりに気を取られてしまっては、その幹の生命力に、枝の向上心に気付けない。

 

落ちた花弁すら養分にして、また平和に明日を迎えるために、逞しく生きていきたい。

 

「薔薇色のランドセル」

私は、誰かと同じが嫌な子供だった。

 

原体験にあるのは姉と妹の存在。新しくない、二番煎じのおさがりが私の周りに溢れ、自分の意思を伝えて自分の欲しいものが手に入る機会はほぼないに等しかった。

 

何かを選ぶ時も、姉が選んだ後に「じゃああなたはどうする?」と、「本当は姉が選んだあれを選びたかったのに」という気持ちを食い殺して残り物に甘んじるしかなかった。

 

自分の存在がいつまでも2番手で、自分の存在価値について、子供ながらに何度も考えさせられたものだ。

 

さらにタチが悪いのは妹の存在で、やっと少し大きくなって「ワガママ」という形で自分の個性を主張していた矢先に、妹に私の個性をコピーされるという始末。

 

アイデンティティの城壁をブルドーザーでぐりぐりと抉られた、そんな幼少期だった。

 

そんなことは置いておいて。

 

だからこそ、私は人と同じことをすることや同じものを持つことに違和感を感じてしまう人間なのである。

 

 

小学生の頃、男子は黒いランドセル、女子は赤いランドセルの時代に私は育った。

 

オレンジや紫の、赤をちょっと押し広げたような色のランドセルが低学年に見え隠れしてきていた時代ではあったが、出る杭はあえなく叩き潰されるような空気感は未だあったと思う。

 

そんなとき、私は常日頃、「なんで私のランドセルは赤じゃないといけないの?」と親に尋ねていた。

 

意味がわからない。赤より黒の方が絶対にかっこいいのに、なんて。ガキにしてはなかなか新進気鋭な考え方をしていた。

 

ある時、母親に全力で泣きついたことがあった。水色のランドセルがいい、買って欲しい!というような内容だったと思う。

 

母親は困っていた。そりゃそうだ。母親こそ「赤が女、黒が男」が当たり前の時代に育ってきたのだから。

 

そこで、母が私にかけた言葉で忘れられない言葉がある。

 

それは、「いいじゃない、あなたのランドセルは『薔薇色のランドセル』なのだから」である。

 

私は、衝撃を受けた。薔薇色、なんて素敵な響きなんだろう。

クレヨンのように、赤、黄色、オレンジ、緑という分節で見ていた世の中に「薔薇色」という新しい色が加わった事で、世の中がより一層、カラフルに見えるような気がした。

 

私のランドセルは、「赤」ではなく「薔薇色」なんだ。そう思うだけで、友達のランドセルとは全く違う、唯一無二で特別なランドセルに見えてくる。

 

ひねくれているけど単純な私は、私だけの「薔薇色のランドセル」を卒業するその瞬間まで一度も壊すことなく大切にした。

 

 

左ききのエレンを読んだ

「天才になれなかった全ての人へ」

 

 

この漫画では、人のラベリングとセクター分けがすごく多い。

「こういうタイプのクリエイター」、「〜な天才」

 

枠にはめ込んで、キャラクターとして機能させて、「凡人」という主人公にフォーカスして各界の「天才」と対比させ、その中で徐々に下克上を果たしていくというような構造だった、気がする。

 

「天才になれなかった」読者に対して、努力さえあればなんとでもなるぞ、という力強いメッセージをくれる作品だった。

 

でもこの漫画を読んで私は改めて考えさせられた。

 

天才と凡人の差ってなんだろう?

 

天才ってそもそも存在するのだろうか。

私があるスポーツをやっていたときに、大会で入賞したことがある。そこで、同じ時期に同じスポーツをはじめた友人に「いいよな、お前は才能があって」と言われた。

 

私はそのとき、「そうか、見えない努力は才能として片付けられるのか」と気づいた。

 

このような経験を踏まえると、天才とは、努力を努力とも思っておらず、自信を磨く過程を楽しみながら持っているスキルを一掃磨き続けられる人間のことを言うのではないのだろうか?

 

「向き」「不向き」というのは、脳の大きさ、身体能力など、個体の差という内的要因によって左右される。これは絶対的事実である。

 

自分の形質に合った場所で輝くためには、自分が対峙しているものに心酔し、我を忘れるほど時間をかけることが「天才」を形成するのではないだろうか。

 

あいつは「天才」だから。とか、「天才」になれなかった。という時点で、自分の中で勝手に自分に見切りをつけている。

 

ニュートンも、アインシュタインも、一人の人間であることに変わりはない。ただそこにあったのは、「向き不向き」を補うくらいの相当な努力量か、努力しているという事実を忘れるほどの「あたりまえ」とも言える圧倒的熱量だったのではないのだろうか。

 

電車

今目の前に、俳句の本を読んでいる綺麗な藍色の着物を身に纏ったおばさまが座っている。

 

右にはスポーツウェアを着たいかにもスポーツジムに向かっていそうなガタイの良いお兄さん。

 

左側でギリギリ視界に入ってくるのは、2人だけの世界に入っている若いカップル。

 

属性も背景も全てが異なるものが同じ椅子にこじんまりと横並びになっている。

 

隣には完全に得体の知れない他人が座っているのに、睡魔に負けて身を任せたり、逆に肘で小競り合いをすることもある。

 

小さい世界の大きな多様性がここにはある。

 

でも基本的にみんな自分の目の前のものに夢中だ。

 

きっと、宇宙人が隣に座ってても気が付かないかもしれない。

 

不思議な非日常。とっても大好き。

孤独

シンエヴァを観た。

 

孤独を理解している人間はいい作品を作れるなんてよく聞くけど、人間って結局孤独な生き物だから、その作品の孤独さに共感して、共感によってその寂しさを埋めようとして人に求められるから芸術って孤独で、孤独が生み出す産物なのかな。

 

誰かに理解されたいと望んで作品を生み出すはずなのに、完全に理解されることなんて誰にも出来るわけなくてだから苦しくてでも唯一無二だから光り輝くのかも。

 

「ひとりじゃないよ」なんて簡単に言わないでほしいよね。私の一人も背負う覚悟でいてくれよな。

話を聞いてもらうこと

私は、あまり話を聞いてもらえない。

 

幼い頃、親や兄弟に構ってもらえなかったせいだ。常に愛情に飢えていて、「誰かに話を聞いてほしい」という渇望と、「でも誰も私の話なんて興味ないだろうし」という絶望が競合して、なんだかいつも聞き手に回っている気がする。

 

思えば私が好むコミュニケーションは1:1だ。気を回すのはその人だけで良くて、1:1であれば互いの価値観や感情など、人間のコアみたいな部分に触れながら会話ができる。聞き手に回りながらも、人間には受け取ったものを返したくなる「返報性の心理」というものがあるので私の話も十分に聞いてもらえる確率が高い。

 

私が人と話すのが好き、といったときに対象となるのはこの1:1のコミュニケーションなのである。

 

一方で、私が得意だけど嫌いなコミュニケーションがある。それは、「笑いありき」の瞬発力が求められる刹那的なコミュニケーションだ。主語が大きくて申し訳ないが、男性社会にありがちなのかもしれない。誰かが、「金ないわマジで」と言えば、「またパチンコかよ〜!」とか「女に貢ぎすぎなんだよ」みたいな。(例え下手だけど)

 

ちょっと数字を誇張して表現したり、前の会話で出てきた言葉を引用したり、あるあるネタを引っ張ってくれば話を盛り上げることなんて造作もない。私はボケにもツッコミにも回れる器用さはある。だけどなぜなんだろう、こんなコミュニケーションめちゃくちゃすっからかんではないか。

 

学生の時の思い出として思い出すのは、そんな刹那的に腹をよじらせて笑った記憶ではなく、私の場合はサークルの合宿の夜にどこまでも寝ないで語り合ったあの夜なのである。「将来何になりたい」だとか「どんな人が好きでどんなデートがしたい」とか、過去に積み上げられてきた価値観に起因された今や未来の話を語り合うのが、心底楽しかった。

 

人間という同じ生物、同じコミュニティに属しながら、こんなことを考えながら生活していたのかとか、こうも自分と違うのかとか、新しい発見がある方が楽しくて素敵だと私は思っている。

 

パパ活、ラウンジ、ホストクラブ、カウンセリング。

 

「話を聞いてもらうこと」がここまでも商売として成立している。「悩み事は話せばちょっと楽になるよ」なんていう言葉があるが、きっと本当にそうなんだ。なんせみんな普段ちっとも話を聞いてもらえていないから。

 

ハフィントンポストの記事だったか、現代の若者は親友がいないという記事を見た。同様に、「友人よりも親や兄弟に悩みを相談する人数」が多くなっているという。

 

ツイッターなんてたったの140字だ。140字で私の濃厚な人生の何を伝えられるというのだ。でも現代人は、そんなわずかな情報を切り取って、その人について判断して、どんどんお互いに「話を聞かない呪い」をかけてしまっている。

 

ハッシュタグでつながれば、その人はきっと「ていねいな暮らし」をしている人だろうし、「おしゃれさん」なのだ。その人の中身や価値観なんてどうでも良くて、その人にどんなハッシュタグがついているかだけを気にして、そして自分にどんなハッシュタグがついているかを気にしてコミュニケーションを取っている。

 

だから「面白いか」「面白くないか」で繋がりは切り捨てられ、寂しくて、もっと繋がりを求めて、寂しいんだ。

 

私は本当は、「この人、私の話なんか興味ないんだろうな」なんて全く気にしない声の大きい「ずっと話している人」になりたかった。でも、私は誰かの話を遮られたり、声の大きい人だけの話を聞いてる人の、寂しさを知っている。

 

だから私は話を聞きたい。目を合わせて、相槌を打って、感想を言う。たったそれだけで、誰かの孤独が救われるし、私の孤独も救われるのである。

 

そして、だから私は今日もブログを綴るのだ。

 

 

 

人を怒れない

私は人を怒れない。

 

たしかにムカつくことは本当にたくさんある。むしろ短気な方だ。

 

この間なんて乗った井の頭線がとても混んでいて、私のお尻に男性のあれを押し付けられ、抵抗出来ない状態で性的に搾取されたことに対して心から憤慨した。

 

細かいことで言えば、さっき箪笥の角に小指をぶつけてムカついたし、

 

あなた、出っ歯だね!笑って言われるのに対しても嫌なにいってんのウザ!!と心から怒った。(表には出さなかったが)

 

しかし、しかしだ。

ここ最近、人を叱責したり、大声をだして感情を表現したりといったことをしていない。

 

自己主張が苦手なタイプではないのだ。

 

むしろ色々な人を巻き込んでいけるようなタイプだと思っていたのだが。

 

私はこの現象を以下のように分析していた。

 

それは、「人に嫌われたくないから」、というものである。

痴漢に対しては時間がなくて対処のしようがなかったという例外的なものであるが、その他身の回りの事象に関しては「嫌われたくないから」という負のインセンティブが働いているように思う。

 

一方踏み込んで「そう言うこと言うのはやめたほうがいい。」と言ってしまうと「うわ、興醒めするわ!」とか「意識高え〜!」とか思われそうで人に過剰に干渉するのがとても怖い。

 

おそらくこれは、自分が他人に対してレッテル貼り貼り人間だからこそ起こってしまう現象なのである。「この人はこういう人だから。」という一言で片付けて、その人が変わる事を期待せず、また自分に対して向けられているレッテルや期待を壊したくないというがんじからめの状態から、人に怒れないというのに繋がっているのである。

 

よく、「みんなに優しくする人は結局誰にも優しくしていない」というのを聞く。

 

選ばないということは選んでもらえないということであり、選ぶということは「選ばなかった人」を産む代わりに「選んだ人」との信頼関係を育むことができるのだ。

 

私は非常に孤独である。

いつか誰かに期待して怒ったり、選んだり出来るのだろうか。

 

変わる事は果たして正解なのか。