Pomme Grenade

Mon dessin numéro 1. Il était comme ça:

話を聞いてもらうこと

私は、あまり話を聞いてもらえない。

 

幼い頃、親や兄弟に構ってもらえなかったせいだ。常に愛情に飢えていて、「誰かに話を聞いてほしい」という渇望と、「でも誰も私の話なんて興味ないだろうし」という絶望が競合して、なんだかいつも聞き手に回っている気がする。

 

思えば私が好むコミュニケーションは1:1だ。気を回すのはその人だけで良くて、1:1であれば互いの価値観や感情など、人間のコアみたいな部分に触れながら会話ができる。聞き手に回りながらも、人間には受け取ったものを返したくなる「返報性の心理」というものがあるので私の話も十分に聞いてもらえる確率が高い。

 

私が人と話すのが好き、といったときに対象となるのはこの1:1のコミュニケーションなのである。

 

一方で、私が得意だけど嫌いなコミュニケーションがある。それは、「笑いありき」の瞬発力が求められる刹那的なコミュニケーションだ。主語が大きくて申し訳ないが、男性社会にありがちなのかもしれない。誰かが、「金ないわマジで」と言えば、「またパチンコかよ〜!」とか「女に貢ぎすぎなんだよ」みたいな。(例え下手だけど)

 

ちょっと数字を誇張して表現したり、前の会話で出てきた言葉を引用したり、あるあるネタを引っ張ってくれば話を盛り上げることなんて造作もない。私はボケにもツッコミにも回れる器用さはある。だけどなぜなんだろう、こんなコミュニケーションめちゃくちゃすっからかんではないか。

 

学生の時の思い出として思い出すのは、そんな刹那的に腹をよじらせて笑った記憶ではなく、私の場合はサークルの合宿の夜にどこまでも寝ないで語り合ったあの夜なのである。「将来何になりたい」だとか「どんな人が好きでどんなデートがしたい」とか、過去に積み上げられてきた価値観に起因された今や未来の話を語り合うのが、心底楽しかった。

 

人間という同じ生物、同じコミュニティに属しながら、こんなことを考えながら生活していたのかとか、こうも自分と違うのかとか、新しい発見がある方が楽しくて素敵だと私は思っている。

 

パパ活、ラウンジ、ホストクラブ、カウンセリング。

 

「話を聞いてもらうこと」がここまでも商売として成立している。「悩み事は話せばちょっと楽になるよ」なんていう言葉があるが、きっと本当にそうなんだ。なんせみんな普段ちっとも話を聞いてもらえていないから。

 

ハフィントンポストの記事だったか、現代の若者は親友がいないという記事を見た。同様に、「友人よりも親や兄弟に悩みを相談する人数」が多くなっているという。

 

ツイッターなんてたったの140字だ。140字で私の濃厚な人生の何を伝えられるというのだ。でも現代人は、そんなわずかな情報を切り取って、その人について判断して、どんどんお互いに「話を聞かない呪い」をかけてしまっている。

 

ハッシュタグでつながれば、その人はきっと「ていねいな暮らし」をしている人だろうし、「おしゃれさん」なのだ。その人の中身や価値観なんてどうでも良くて、その人にどんなハッシュタグがついているかだけを気にして、そして自分にどんなハッシュタグがついているかを気にしてコミュニケーションを取っている。

 

だから「面白いか」「面白くないか」で繋がりは切り捨てられ、寂しくて、もっと繋がりを求めて、寂しいんだ。

 

私は本当は、「この人、私の話なんか興味ないんだろうな」なんて全く気にしない声の大きい「ずっと話している人」になりたかった。でも、私は誰かの話を遮られたり、声の大きい人だけの話を聞いてる人の、寂しさを知っている。

 

だから私は話を聞きたい。目を合わせて、相槌を打って、感想を言う。たったそれだけで、誰かの孤独が救われるし、私の孤独も救われるのである。

 

そして、だから私は今日もブログを綴るのだ。