Pomme Grenade

Mon dessin numéro 1. Il était comme ça:

左ききのエレンを読んだ

「天才になれなかった全ての人へ」

 

 

この漫画では、人のラベリングとセクター分けがすごく多い。

「こういうタイプのクリエイター」、「〜な天才」

 

枠にはめ込んで、キャラクターとして機能させて、「凡人」という主人公にフォーカスして各界の「天才」と対比させ、その中で徐々に下克上を果たしていくというような構造だった、気がする。

 

「天才になれなかった」読者に対して、努力さえあればなんとでもなるぞ、という力強いメッセージをくれる作品だった。

 

でもこの漫画を読んで私は改めて考えさせられた。

 

天才と凡人の差ってなんだろう?

 

天才ってそもそも存在するのだろうか。

私があるスポーツをやっていたときに、大会で入賞したことがある。そこで、同じ時期に同じスポーツをはじめた友人に「いいよな、お前は才能があって」と言われた。

 

私はそのとき、「そうか、見えない努力は才能として片付けられるのか」と気づいた。

 

このような経験を踏まえると、天才とは、努力を努力とも思っておらず、自信を磨く過程を楽しみながら持っているスキルを一掃磨き続けられる人間のことを言うのではないのだろうか?

 

「向き」「不向き」というのは、脳の大きさ、身体能力など、個体の差という内的要因によって左右される。これは絶対的事実である。

 

自分の形質に合った場所で輝くためには、自分が対峙しているものに心酔し、我を忘れるほど時間をかけることが「天才」を形成するのではないだろうか。

 

あいつは「天才」だから。とか、「天才」になれなかった。という時点で、自分の中で勝手に自分に見切りをつけている。

 

ニュートンも、アインシュタインも、一人の人間であることに変わりはない。ただそこにあったのは、「向き不向き」を補うくらいの相当な努力量か、努力しているという事実を忘れるほどの「あたりまえ」とも言える圧倒的熱量だったのではないのだろうか。