「私だけ、美人だったら、いいのに。」
1989年の西武百貨店のキャッチコピーである。
言い得て妙である。
なぜ私がそう思うのか、ここに言語化してみよう。
『私だけ、美人だったら、いいのに。』
文面だけ見ると、世の中にはたくさんの美しい人たちがいて、ここでいう私(ターゲット)は自分のことを美しいとも思っている(もしくは自分を美しくないと思っている)が、同時に美しい周りの女性を疎ましく思っている、というようなニュアンスが感じ取れる。
試しに、『私だけ、美人だったら』の状況がどのようなものか想像しよう。
他の美人を気にする必要がなくなって、圧倒的に優位に立てる。(簡単に言えば、モテたり、ちやほやされて生きやすくなったり。)
=ここから、美というものが1989年においてある種世の中を生きやすくするための「武器」であると言える。
『いいのに。』の言葉が示すのは、上記のような状況が現実ではなく、その状況を「理想」とする、あくまで「願望」にとどまる思いというのがわかる。
つまり、この広告が対象とするのは「美に対して貪欲な全ての女性」で、そのゴールのない「美意識」を煽り立てているのではないだろうか。
永遠に埋まらない「美」への執着を文字として起こすことで、もはや怒りのような感情を沸き起こらせて、どうしようもない無力感に、さらなる「美」への志向性を高まらせるというような効果がありそうだ。
簡単に言い換えるとすれば「一番美しくなりたい!だから化粧品買うしかない!」というような感じだろうか。白雪姫の女王のようなキャラクターがターゲットとして想像できる。
・・・
1989年から30年ほど経過した今でも、このキャッチコピーは私に刺さった。
令和においても、ルッキズムの嵐は止まることを知らない。「かわいいは正義」だし「かわいいは作れる」のである。
一方で、有名大学におけるミスコンの廃止だったりアメリカにおいてもヴィクトリアズシークレットのファッションショーがなくなったりと、ルッキズムに対抗した風潮も生まれつつある。そのような「均一した美意識」が成立しなくなってきた世の中において、化粧品というのはどんな機能を持っていくのだろうか。
ここからは私の憶測にしか過ぎないが、「個性を表現するもの」としてさらに化粧品も活躍していくのではないかと思う。Tiktok、インスタグラム、そしてClubhouseなどの最盛を見ていると、現代は、「個人が個性を発揮して発信すること」に価値がある時代であると言える。他の人とは違う「+@」を表現するために、顔や身体に「+@」の価値を付与する手段としてこれからも化粧品が用いられていくのではないかと思う。
今までは、「橋本環奈」が大正義だったかもしれない。しかし10年後、20年後を見てみると、もしかしたら特定の1人をまつりあげて美を定義するのは難しくなっていくのかもしれない。