Pomme Grenade

Mon dessin numéro 1. Il était comme ça:

ポリコレっていったいなんなんだ

「女らしさ」「男らしさ」は辞めろ。

 

黒人にスーパーヒーロー役をやらせろ。

 

女性を性的に搾取するな。

 

こういうのが今1番声の大きい主張な気がする。特にTwitterだと投稿1つとっても、「ポリコレ的にどうなのか」という議論が巻き起こる事も少なくない。所謂、「言葉狩り」である。

 

私はずっと、ポリコレを信仰していた。女性の権利はもっと主張されるべきだと思っていたし、もっと多様性に寛容な社会であるべきだと真剣に強く信じていた。だからこそ、誰かの言葉を捉えては「それってすごく差別的ではないのか?」とか「前時代的な発言だ」とか、気にしすぎるくらい気にしていて、意識しすぎるあまりうまく呼吸ができなくなっていた。

 

自分自身、何かを喋るにしても「主語が大きいけど」を頭につけたり、「ちょっと差別的に聞こえるかもしれないけど」みたいに、発言を上手くぼかしたりするために遠回りしたりしている。

 

多様性に寛容な社会を目指したいはずなのに、気付けば自分の発言すら自由に言えないほどがんじがらめになっている。『ハウスジャックビルト』という映画を観た時からそんな矛盾に気がつくようになった。

 

気づけば、ポリコレが正義だと信じて、それを人にも押し付け自分の中で世の中はこうあるべきだという主張をしている。それってすごく全体主義的で恐ろしいことなのかもしれない。

 

ポリコレが権威を獲得しているのは明白である。SDGsでもジェンダーイクオリティが主張されていて、持続可能な社会の実現のためにそれが必要な価値観であるとされている。

 

しかし持続可能な社会を目指すのに、「子供を作りたくない女性も平等にリスペクトするべき」という主張がされてしまえば、それは「持続可能な社会」と真っ向から相反する事になってしまうのではないか。

 

気付けは自分の意見すらまともに言えない。言論がポリコレによって封殺されている。


じゃあ社会ってどうあるべきなんだろう、と考えてみる。明らかに、ポリコレが権威を振るってそれがさも絶対正義かのように他人の発言を批判したりすることが正しいとは思えなくなってきた。じゃあ、差別的な発言をしていいのか?と言われても、それは違うと思うし、私も女性蔑視の発言を見るととても悲しくなる。

 

もはやもう、思想によって住む場所を分けた方がいい、くらいのアイデアしか思い浮かばない。自己矛盾を抱えたまま、地雷を踏まないように生きていくのはすごく息苦しい事である。

 

もはや、万人に好かれるなんて叶わないのかもしれない。芸人のぺこぱが人気を博しているが、全てを肯定する事って結局何も決められないことだし生産性もなくて前に進めないような気もしてきた。ぺこぱが居てもいい、でも芸人さんが全員ぺこぱをやり出したらきっとつまらない社会になってしまう。ぺこぱはぺこぱだけでいいのかもしれない。

 

なによりも、何かにつけてポリコレで誰かを攻撃することをする事に関して、自分の行為が何を意味しているのか一度立ち止まって考えた方が良いかもしれない。特定の思想は持たなくても、その時々で大切だと思う価値観で発言すればいいのかもしれない。それってすごく一貫性のないことかもしれないけど、本当の正しさなんてどこにも無いからそもそも自分の拠り所になる価値観を見つけ出して確定する行為こそ愚かな事なのかもしれない。

 

言葉尻が曖昧になってしまう。しかし私にはまだ言い切る勇気はない。